しえすたブログ

ひきこもりで無職のシングルファザーが離婚や親権について語る

親が医者で金持ちの家に産まれた父の恵まれた生涯を言及する

人にはそれぞれに違うバックボーンがある。

家庭環境、兄弟構成、経済状況、時代背景などから人生観は形成されていき、オリジナルのアイデンティティが育まれていくわけだけれど、やはりどんな両親のもとに産まれてどう育てられたかがかなりの部分を決定付けるのではないだろうか。

今も病院のベッドで寝たきりの、意識を失くした父に想いを馳せながら、彼の一生を客観的に紐解いてみたいと思う。

 

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父の一生

父の子供時代

私の父は太平洋戦争の始まった年に名家の長男として産まれた。

父の父親(祖父)は医者だったので、軍医として戦地に赴き、徴兵されたほとんどが戦死した中で、僅か数名の生存帰還兵としてその功績を称えられ、新聞にも載った。

戦地で軍医としての仕事を全うしたということで、ずっと国から功労金も送られていたらしい。

だが戦地から帰ってきた祖父に対して4歳になったばかりの父は知らないおじさんが家に入ってきたと怯えて祖母の後ろに隠れたという。

無理もないこととはいえ、いっこうに懐かない父に傷心且つ機嫌を損ねた祖父は可愛がることをせず、そのまま溝は深まる形でその後最後まで父と祖父の関係は冷え切ったままとなった。

父には弟と妹がおり、弟は甘え上手であったため、祖父が次男を贔屓していると感じた父は更に屈折した感情をこじらせて、弟と妹の歳が近かったこともあり弟妹ともウマが合わず、ずっと家族の中でハブられた存在であると被害妄想を拡張しながら子供時代を過ごしたという。

だが敗戦下でほとんどの国民が貧しい暮らしを強いられている中で、父の家はお屋敷住まいでお手伝いさん(メイドさん)を抱える程に裕福だった。

ラジオから流れるアメリカの音楽にかぶれた父はギターを手にしてリスニングだけで英語をマスターした。

家には防音が施された音楽室があり、そこにはピアノもチェロもドラムもあった。

複数年留年しながらもなんとか大学を卒業する年に母と運命的な出会いを果たした父は、作曲家になる夢を追いながら母との交際を続け、まだ就職もしてないのに結婚を急ぎ、熱烈且つ強引な形で愛のない実家を飛び出し、上京して婚姻生活をスタートさせた。

 

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無職で結婚した父の夢と挫折

そういえば私もそうだが私の父も無職の状態で結婚をしたのだった。

私は親からの援助は一円も受けていないが、父は親の援助を受けまくりだった。

ますます祖父との関係が険悪になる中で、祖母を通して金銭的援助を20年以上の長きに渡って受け続けていた。

祖父のコネで入った会社は数ヵ月で辞め、自力で就職した会社も海外転勤を不服として辞めてしまった。

流しで弾き語りで日銭を稼ぎながら、若手歌手をプロデュースする形で自身が作曲したレコードを何枚か出したものの、プライドが高く売り込みが下手で思うように作曲家としての仕事が展開しなかったことで、都心の一等地にミュージックパブをオープンさせ(もちろん祖父の後ろ盾で)夜のお店のマスター的な仕事を20年経営する事となった。

医者の息子である父は人に頭を下げることなく好き放題に生きた

40年前当時で都心の一等地に位置するお店の月々の家賃は35万円だったと確かに記憶している。都下に離れた家族が住むマンションの家賃が月々15万円だったので、合わせて毎月50万円の家賃を当時支払っていたことになるが、その半分以上は親からの仕送りで凌いでいた。

そんな状態でいつしか毎日のように夫婦喧嘩が勃発するようになり、私が物心ついた頃には両親が毎日怒鳴り合うのを見ていて、それはきっとどこの家庭でも当たり前の事なのだと思っていた。

 

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友達の父親と比べてうちの父はかなり変わっているなと感じていたけれど、厳格だった祖父のスタイルを全否定するかのごとく、子に対する父の接し方は親バカ且つ愛情にあふれていたので、例えゴクツブシの金銭勘定のできないダメな大人であったにせよ、アーティストとしてのプライドを自信満々に誇る父が私は好きだった。

恵まれてるのに不幸な家庭環境だったと話す父に違和感

自分語りが大好きな父は臆面もなく赤裸々に自分がいかについてない人生であったか、世の中がいかに嫌な奴が多いかを、ユーモアを交えながら聞いてもないのに一方的に捲し立ててソファに寝転がりながらよく語っていた。

中でも最も自分の父親(祖父)を嫌悪しており、金銭援助に対する感謝の気持ちは微塵もなく、むしろ潤沢なカネを全部毟り取ってやれという感覚のようにも見えた。

傍から見たら超絶恵まれた家庭で育ったように映る父だが、本人は一番に愛情に飢えていたらしく、貧乏でも暖かい家庭に憧れていたと語っていたが、それは裕福なボンボンのないものねだりというものだろう。

だけども確かに父は結局のところ祖父に認めてもらいたかったという思いが強かったのだろうと思う。

いつまでも自立できなかった父がダメだとも思うが、少しも歩み寄ろうともしなかった祖父にも悪い所はきっとあったに違いない。

そして確かに祖父と父の冷え切った関係性と比べたら、父と私の良好な親子関係の方が幸福なのかもしれないとも思った。

金銭的にはいっさい頼れない父だったけど、憎むような感情は一度も持つ事はなかったのだから、その意味では父はオリジナリティのある良い父親像を私に見せてくれたと思うのである。

だからこうして今私は自信を持って父子家庭を構築できているのだ。

 

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父親の価値観を継承しながら細々と生きる

どうしたって私の築かれた価値観は父に影響された部分も大いにある。

父のことを尊敬することは出来ないが、人として単純に好きだったので、血を継いだ息子として父の思いや生き方を最大限尊重したいと思ってる。

遺品整理をしながら父がこんなレコードが好きだったのかとか、生前語り合うことが出来なかった新しい発見に出合うと、まだまだ私の知らなかった父の若かった頃の時代の話をもっと関心を寄せて聞きたかったなとも思う。

でもきっと一般的な親子よりはずいぶんと語り合った気もするから、言い残したことも特には思い浮かばない。

そうだな、とりあえずこれからも父のイズムを継承しながらも、自分は細々と隠遁生活を謳歌していく予定だよ。

いつもメールの最後に「孫は元気か?」と気にかけてくれるところが嬉しかったよ。

もう春になったし、そろそろ目覚めてもいいんじゃない?

 

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