しえすたブログ

ひきこもりで無職のシングルファザーが離婚や親権について語る

父親の死がつらい、辛すぎるけど受け止めて前に進まなきゃ

父が救急搬送されて心肺停止になってから一命は取り留めたものの意識が回復しないまま一週間が経過しました。

先日10分間だけ面会が許された内縁の妻の人が言うには、呼吸器を付けてベッドに横たわる父に、もうそこに魂が入っていないような印象を受けて愕然として、人工透析による密閉された異様な異臭の室内に具合が悪くなって早々退室した、とのことでした。

おそらくもう、ダメなんだろう。

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ちゃんとさよならしたかった

なんでモヤモヤしてるかっていうと、直近にちゃんと最後だと思って会って話していないからですね。

いくらでもいつでも会おうと思えば会える時間と環境にあったというのに、放置して先延ばしにしていた自分の浅はかさに悔やんでます。

せっかく先月クリスマスもお正月もあって、それまでは意識もしっかりと生きていたのに、なんで最後になるかもしれないと思ってちゃんとお正月に顔を出さなかったのか。

あとになって昨日、内縁の妻の人から用意していた息子(孫)へのお年玉のし袋を渡されたんですよ。

ちゃんと息子の名前が手書きで書かれてあって、お札が入ってました。

言い訳ですけど、僕はお年玉やおせち料理などを準備させることに遠慮する気持ちもあって、お正月に会うのを控えたところもありました。

でもちゃんとお年玉を用意してくれていたのであれば、呼んでくれたらふたつ返事で息子を連れて家に行ったはずだから、それもすごく悔やんでます。

もちろんコロナ禍という事で父親の方も人との接触を極力避けていたので、昨年はお呼ばれする事がなかったのですが、それでも気にかけてこっちから会いに行く姿勢を示すべきだったと思うのです。

もっと言えば例え断られてもアポなしで訪問して様子を窺うべきでした。

さすがに玄関まで来て追い返されることはないはずですから。

それなのに、結局11ヶ月もの間、弱りゆく父の姿を直視したくなくて、介護は全部内縁の妻の人に丸投げして、自分は一度も父の具合を憂慮する歩み寄りすらしませんでした。

こんなんだから、二週間前に急にそっちに行くよと言っても断られてしまったのです。

もちろん父ももうちょっと元気になってから会いたいという想いがあったからなんでしょうけど。

最後に救急搬送される直前に父の苦しんでるうめき声を電話越しに聴きました。

「具合悪いの?」「大丈夫?」と間の抜けた応答しかできませんでした。

最後だというのに。

まるで実感がなかったんです。

 

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父との思い出

父との思い出は何だろう。

遡ればいっぱいあるし、一般的な父子関係よりは濃密だったと思います。

故に悲しいです。

父は陽気な酒飲みだったので、大人になってからよく一緒に居酒屋に行って語らいました。

父が痛風を患ってからは大好きだったビールを控えるようになり、呑みに行く回数も減りましたけど。

半分が嫌な人間の悪口で、半分が自分の夢を語ってたっけ。

スマホは最高のツールだと言って最新の高いやつを購入してました。

YouTubeで自分の音楽を発信していきたいという野望を持っていたけど、結局昨年はその気力と体力が追い付かず、ちゃんねるを開くことも叶いませんでした。

昔僕が漫画家を志していた時は、持ち込みをすることを強く推進していて、よく一緒に出版社の前まで付き添ってくれたっけ。

思春期の頃、ひきこもりがちになっていた僕に、父は「俺だって大学に入るまでは元祖ひきこもりでその頃に自分の世界を構築していったんだ」と肯定してくれました。

そう、いつだって父は僕を100%肯定してくれていた。

僕が発するねじ曲がった思想を全て「面白い」と言って受け入れてくれた。

だから僕はある意味素直に、自分のマイノリティな思考に自信を持って生きてこれた。

それは全て、父のお陰だ。

父の人生

父の人生はどんなもんだっただろうか。

客観的に見れば、そこそこ恵まれた人生だったんじゃないだろうか。

元々地主の家に産まれ、父(私にとっての祖父)が医者ということもあり、ほとんどの人たちが極貧だった戦後の時代に、父はめちゃくちゃ裕福な家庭で育った。

どれくらい裕福かというと、家に女中(メイド)さんが数人いたくらいだ。

屋敷には楽器が取り揃えられていて、防音室にはグランドピアノとドラムが置いてあった。

しかし祖父や弟妹との折り合いが悪く、結婚して子供が出来てすぐその実家を飛び出して、祖父から融資された資金で東京の一等地に店を構えてアメリカ人が気軽に来れるようなカントリーパブを開業していた。

本人は作曲家を志望していたのでその頃は不本意な仕事と生活だったと述べていましたが、それでも誰に頭を下げることもせず好きなことをやりながら、我がままに自由奔放に生きてるように見えなくもなかった。

後に意に反する離婚をすることとなり、家庭は分断したとはいえ、年の離れた内縁の妻の人に晩年懸命な介護をしてもらえたしね。

父の生きた79年という年数期間は、現代では決して長い方ではないけれども、それでもそれなりに良い人生だったんじゃないかと息子視点ながら思うのです。

少なくとも抜け殻のような僕の人生よりかは比べるまでもなく充実していたふうに見えるからです。

だからそれほど気の毒な印象はないんだけど、本人はまだまだやり残してることがいっぱいあるみたいだったので、この途切れた結末はものすごく口惜しいんだろうなと容易に心情を想像できます。

 

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死生観

何度か救急車を呼んだり、手配や手続きをしたりと、やはり独居老人だったらばもっと前にとっくに亡くなっていたかもしれないと思うと、既婚者より未婚者の方が寿命が10年程短いというデータも深く頷けます。

 

そしてやはりこの世界は人々の脳の中で描き出された生々しい夢であり、それを我々は共有しながら生きてるんだけど、この世界で死にゆく人というのは、この我々と共有するユメセカイから覚めて、別世界へ移動してしまったということなんだと思うのです。

 

もうどこへ飛ばされてしまったかは判らないし、もう絶対に接点を結ぶこともないのでしょう。

この世界で、この時代に、たまたま父と僕は親子という関係でめぐり遇いました。

この奇跡を今はじっくりとかみしめながら、別世界へ旅立つ父を見送りたいと思います。

 

バイバイ、ありがとう。

 

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