しえすたブログ

ひきこもりで無職のシングルファザーが離婚や親権について語る

人生の主役から降りる~子供のために生きるということ

毎日我が子ファーストな暮らしであることに我ながら苦笑しつつも、受け入れてルーティンをこなす次第である。

明け方まで起きていようとも、子供を起こすために毎朝7時過ぎにまず自分が起き上がらなければならないし、朝食の準備をして送り出した後は自由であるけれど、子が学校から帰ってきたら手洗いうがいを促して、夕飯の買い物と支度をして、自分の分はサラッとかっこんで、入浴の準備をして、宿題や自主学習を促して、歯磨きを強要して、そろそろ寝ろと就寝を促すまでが毎日の日課である。

子供を寝かせた後はまたこちらの自由時間になるが、それでも一日の半分は子供のマネージメント作業に費やしている事になる。

監護親権者(保護者)であるのだからそんなの当たり前ではあるのだが、引き篭もりあがりの社会不適合者であるこの私が、ひとりっ子とはいえひとり親として主夫業をこなしている事に、我ながら不思議な感覚に陥るのである。

今私は子供の為に生きていて、いつの間にか人生の主役は自分じゃないんだなぁ‥と。

人生の主役から降りる

皆、全ての人達は自分自身が物語の主人公であると思って生きているはずだ。

「俺なんてモブだよ‥」と俯く人であっても、主観からは逃れられないし、そんな人でも冴えない物語の主人公であることに変わりはない。

だが、どうだろう。

例えばタレントのマネージャーとか、明らかにスター属性の人のすぐ傍らで働いていたりすると、もう絶対に主人公はタレントの方で、マネージャーの自分は黒子でしかないと思い知るはずだ。

それと同じように、日々子育てなんかをしていると、子供がまだ小さいうちは子育てマンガの主人公気取りでいられるのだが、子供が十代に突入してくるともう完全に子供に主役を奪われてるような気がしてくるものだ。

実際に世の中の創作物の過半数の主人公はティーネージャーであるし、大人向けの映画でもせいぜい主役は20代~30代までである。

40過ぎた子持ちの親が主人公であるはずがないのである

もうとっくに認める時期は過ぎたのであるが、改めて自覚する必要がある。

私はもう物語の主人公でも何でもない、ただの脇役であり、主人公の父親というつまらない配役を全うしているにすぎない事を。

「主役じゃなきゃやーやーなの!!」なんて駄々をこねる程の幼さなんてこれっぽっちも残っていないし、別にもうモブでもなんでも生きてるだけでどうでもいいよとシニカルにスルーできる大人としての耐性もとっくに身に付いている。

ただせめて、息子が主役でいられる環境づくりに余念がないだけなのである。

 

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子供のために生きるということ

自分の為だけに生きるには人生は長すぎる。

誰かのために生きるというのがきっと健全なんだろう。

少なくとも40歳ぐらいまでは自分の為だけに生きていたと思うから。

それがいつの間にか代替わりして、成長して思春期に入ろうとする子供が少し眩しくて、夢がなくとも日々をこなせる暮らしに埋もれた中年になってしまった自分に気付いてしまっただけさ。

今は子供のマネージメントに責任感で追われているけど、10年後にも子供が自立したら、再び自分自身と向き合う暮らしに回帰して、人生の晩年に心ゆくまで静かな孤独を堪能するのも悪くないと思っている。

それまであと十年、まだしばらくは子供のお世話係(執事)としての役割に全力を尽くそうではないか。

また子育てしたいかと問われたら二度とご免だけれども、監護親権者になれて本当に良かったというのもまた偽らざる本心だよ。

だって毎日心の底から笑える瞬間が何度かあるんだからね。

それだけでもう、あらゆる苦労は帳消しだろう。

 

人生の主役から降りて、子供のために生きること。

自分が主人公だった時よりも、今が一番尊い時間を生きているに違いない。

 

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