しえすたブログ

ひきこもりで無職のシングルファザーが離婚や親権について語る

漫画家になるには才能がなくなれなかった夢破れし者の諦め方

子供の頃から40歳になるまでずっと漫画家を目指しておりました。

それ以外の仕事に就く自分を想像できなかったし、する気もなかった。

幼稚園の頃から絵が上手だと褒められ、小学生の頃もクラスで一番絵が上手いと、絵の時間だけは持て囃された。

だから自分は最初から才能もあるしきっと漫画家になれるだろうと信じて疑わなかった。

どうせ漫画家になるんだしと、勉強もたいしてしなかった。

プロの漫画家になるという事は東大に入るよりも狭き門であるという事実を知る由もなく、恥ずかしげもなく漫画家になる!と宣言していたあの頃を回想する。

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マンガ家になりたいけどなれなかった

孤高の漫画家志望が捧げた遠回りの青春

十代の頃は大きな夢を持って夢に向かって全力で努力するのが正しいとされています。

なので私が漫画家を志すことに親は特に反対もしませんでしたし、むしろ応援してくれておりました。

その逆境でない状態がぬるく、よくなかったのかもしれません。

当時から研究会に入ったり同人誌などで連るんでわちゃわちゃするのが性に合わなかったので、どうせ漫画を描く行為は孤独であるし、自分はプロを目指しているので素人に毛の生えたような仲間と切磋琢磨する環境には身を置こうとはせず、独自路線を貫いた。

その結果井の中の蛙である事に気付けぬまま、デッサンの勉強も疎かにし、枚数を描いてるわりに随分遠回りをする事となった。

17歳で初投稿18歳で奨励賞19歳で賞金獲得

最初は無謀にも天下の週刊少年ジャンプに投稿し、撃沈。

ジャンプなので原稿の返却すらしてもらえない。

そこでジャンプの険しさを痛感し、今度は読んでもいないサンデーに照準を合わせて投稿。

すると奨励賞に入り雑誌の受賞欄に初めて小さく名前が載った。嬉しかった。

自分的にはその頃読む漫画が少年誌から青年誌に移行し始めた頃だったので、少年誌の子供だましのような健全さが受け付けず、もうちょっとドロドロした作風で勝負したいと思い、ヤンマガに投稿するとまた奨励賞となった。

その頃から担当がついて講談社に定期的に持ち込みをするようになったが、奨励賞どまりでなかなか佳作以上に入賞できない事にくすぶりを感じており、自信満々に描いたネームをダメ出しされるとやる気を失くし、この担当は自分を理解してないからダメだと若さ故か立場も理解せず見限り、勝手に小学館の方に投稿して最高額の10万円を獲得するところまでいったが、まさかこれがキャリアのピークになろうとはその時は夢にも思わなかった。

 

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アシスタント時代

その後落選の続く投稿作にアシスタント希望と明記したところ担当から連絡がきてデビュー間近の2歳年上の新人作家のアシスタントをすることとなった。

その先生は田舎から上京したてで初対面では下駄を履いていて古風で物静かで個性的だったが、話してみると人間的にピュアな人であるとすぐに判ったので、月イチの2泊~3泊で仕上げ作業を手伝う運びとなった。

 

彼は美大卒で画力を買われて人気作家の作画担当に新卒で大抜擢されただけに、圧倒的な画の才能を生の原稿から見せつけられ、画風は違うとはいえこれがプロになる絵か!と衝撃を受けた。

その後連載が隔週化され、アシスタントに背景職人も増えて、先生の住まいも木造アパートから鉄筋マンションに引っ越すと共に、最初はドケチだった先生がアシスタント三人分の飲食費も気にしなくなる程に羽振りが良くなった所に一番の成長を感じましたw

 

隔週で四泊五日の作業は結構ハードで、二日目までは和気藹々とお喋りしながらの作業なのだが三日目から先生がほぼ徹夜状態でユンケル片手にうとうとしながらペン先を動かしてる姿は昔ながらの売れっ子漫画家さながらで、その背中からプロ魂を感じ取ると同時に、決して羨ましくはない締め切りに追われる生活をまのあたりにすると、自分には無理かも‥と漫画家という職業の険しさに少しだけおののいた。

今思えばあの頃が私の青春であったなぁと遠い目にもなる。

 

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フリーターしながら漫画家を目指す

三年弱アシスタントを務めたが、周りのアシと比べていつまでも成長できないでいる自分の無力さに耐えきれず辞めた。

自分の漫画も並行して描いてはいたが箸にも棒にも引っ掛からなくなり、二十代半ばにして限界を感じる中、少しずつ漫画を描くペースも情熱も後退する。

それでも就職は全く考えてなかったのと、他に自分にやれる道があるとも思えなかったので、フリーターしながらもまだ漫画家の夢を諦められずにいた。

 

24ページ前後の作品をトータル30本以上描いたと思う。

それでもなれないということはもうやはりなれないということだろうと薄々気付きつつも、それでも昔から公言していた手前スッパリと夢を諦める決断ができずにいた。

 

もう本当は漫画家になるよりも働ける女を捕まえてヒモになりたいという邪な思考も芽生え始めていた。「ヒモになる本」とかも購入したw

けれど当然ヒモになるにも才能が必要で、自分にその才能もない事に気付く。

 

そうこうしてるうちに元嫁と同棲して結婚して子供が出来て、アラフォーになる頃には年に一作も描けなくなり、夢破れた事実をようやく認めるに至ったのである。

 

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漫画家という職業

私がなれなかったからというわけでもないが、昔も今も私は漫画家さんを一番リスペクトしている。
芸術家の中でも音楽家よりも小説家よりも陶芸家よりも絵画家よりも映画監督よりもすごい圧倒的な才能が必要な総合芸術家だと思っている。

 

日本の漫画がアメコミを抜いて独自のマンガ文化を開拓したのは戦後の手塚治虫によるストーリー漫画からだとされるが、現在では斜陽化してきてるとはいえ、それでも日本が誇る一番の文化であるだろうし、今後もその価値は揺るがないどころか高まっていく事と思う。

 

いつのまにか漫画を描くのもデジタル作業に移り変わり、誰しもが自分の描いた絵をネットに即アゲできる環境にもなった。
これにより出版社の漫画賞にこだわらずとも、自分の世界を世界に配信する事が容易に可能となり、プチ漫画家になれる間口は広がったといえる。

 

けれど私はいわゆるプチ漫画家になろうとはもう思わない。

アナログよりはラクにもなってるが、それでもやはり絵を描く作業は結構大変であるという事を知っているからだ。
そして絵に対する情熱が完全に喪失してしまったのと、漫画家になれなかった敗北者の描く古びた絵柄など恥ずかしいだけだと誰よりも自覚しているからだ。

一丁前に自意識だけは依然過剰なままなのである。

 

万年思春期

それが私の代名詞だ。

 

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